昭和五十一年十二月八日 朝のご理解
松永享四郎
ご神訓一、
「天が下に他人ということはなきものぞ。」
昨日から、ここにカレンダ-を、日本交通公社ですね、ビュ-ロ-から持って来てあるんです、今日、ここのところを頂いたら、しきりに、これを頂くんですよ、だから、今、私は、ほどいて見たんですけどね、そしたら、表紙にこう云う旅の絵暦、世界中の子供達が手に手を取り合って、大変楽しそうに遊んでいる絵でした。
もう、黄もなければ、白もない、黒もない、もう本当にこの絵を見ただけで、今日のご理解が本当に素晴らしくお互いが、頂かなければならないと云う事ですよ、成るほど、天が下には他人というものはなきものぞ、研修の時に、ここ、二.三日のご理解を頂いておると、もう本当に、一言一句頂き洩らす事は出来ない様な感じがするねと云った様な、毎日研修をいたします。
本当にそれが、神様が示してくださるみ教えを直に感ずる事が出来るんです、私共が神様任せになって、云うなら、白紙になって、神様が示して下さる事、その事を忠実に守らせて頂くと云う事が、ご神徳を受ける事であり、神と一体になる働きというものが生まれて来るんだとね、その中に、所謂、合楽理念であり、その合楽理念に基づいて、実意丁寧神信心をさして頂こう、今まで疎かにしておった、為そうと思えば子供でも成せる事を、疎かにして来ておった、もうやろうと思えばすぐ出来る事を……
昨日、久富先生が、えらいやかましく云いよんなさいますもん、ほんな、合楽の奴どんばっかりは、と、えらい云いよんなさいます、何を云いござるかと思いよったら、その報徳祭、ご本部の報徳祭にお初穂が、まだ250位しか来ておらん、去年ですら、550出ておるのに、今年、50.100は多くならにゃならんとに、それこそやろうと思えば、為そうと思えば、子供にも成せる様な事を、もうよかよか、その時でよかと云う様な心の人がありはせんかと云う事が、先生やかましく云いよんなさるところでした。
本当ですよね、ご本部参拝するなら、尚更な事、参拝せんなら、せめてお初穂でも、おことづけしようと云うのが、もうちゃんと早く早くと云うて、あんな風に云うておられますから、出さねばいかんでしょう、そう云う事を疎かにしてはならない事がね、今の、実意丁寧神信心なんですよ。
ほらもう辞を低うするとか、丁寧なもの云いをするとか、と云う事じゃない、今まで、こうする事が本当であるとか、やろうと思えば子供でも出来る様な事をいいかげんにしておった事がです、実意丁寧神信心と云う事であります。
天が下に他人ということはなきものぞ、と云う事はどう云う事かと云うと、この地球上に住む人間は、皆、親類同士だと云えるのじゃないですか、その親類同士の者が、一家が栄えなければならない様に、一家親類が栄えねばならん、云うなら、世界中の総氏子が、手に手を取り合って、幸福になって行かねばならない。
昨日は、ここで、心行は愛の心に通ずると云う事を頂きました、今、合楽では、実意丁寧神信心をなすにも、自分の心の中に、心行が続けられておらなければ、仇や疎かになると云う事です。
そう云う心行と云うのは、決して持ち荷になるものでもなんでもない、自分の心に掛け続けると云う事でありますがです、そう云う心行は確かに、愛の心に通ずるでしょう、実意丁寧愛の心を以って人に伝えて行こう、自分が助かっておる、自分が助かっておる心の状態を人に伝えて行かねばおられない、それは、赤の他人じゃない。 天が下に住む人間は、皆、神様の氏子であると同時に、天が下に他人ということはなきこと、と、云う事になるのです、なら、親戚の誰れ、彼れが不幸であるならば、そこに、幸せになる道があるなら、幸せになる道を、説かなければならない様な愛の心を、持ってである、ね。
心行は愛の心に通ずるのです、大体あらゆる宗教ががあります、その宗教の全てが、人間が、幸せにならなければならない事の為にあるものです、果たして本当に人間が、幸福になる条件を揃えている宗教があるだろうか、お酒は飲んではならない、又は、生臭気を食べてはならない、又は、妻帯をしてはならない、もう、いかにも、いかめしい、いかにも、厳しい、とても人間では出来そうにない様な事を、戒律として守らなければ……
まあだ、様々な事がありますよ、一生逆立ちしとかなければならない宗教がある、そう云う意味でです、教祖が天地金乃神様より受けられた信心と云うものは、確かに人間が幸福になる為の信心であり、然も、人間がその幸福をあの世までも、持って行けれる事を、みやすう教えておられる宗教だと云う事です。
金光教の信心の一番素晴らしいところ、と云うのは、人間が誰しも幸福になれれる道を、教祖が教えておられる、その道を行じないならば、いざ知らずだけれども、行じて行く限り、しかも、厳しい戒律と云った様なものではなくて、やろうと思えば、子供でも出来れる様な事を、やろうと思えば誰でも出来る事をです、為して行くと云う教えであります。
例えば、ここに、見事な壷といたします、これはもう随分古い壷だろう、姿形も良い、ならここには、沢山いろいろな、私が壷好きですから、いろんな壷が沢山集まって来ています、その壷の口の方が、チョコッと、この位ばかり欠けたとしてごらんなさい、もうその壷はどんなに、名器だ名品だと云うても、値打ちはないです、只もう参考品にしかならんです、これはいつの時代のものであると云う様な参考品にしかならん、観賞用としては、勿論意味はないです。 金光教の信心がどんなに素晴らしいと云うても、欠けておったんでは、値打ちはないです、合楽で私が伝えておる事は、先日からのご理解を頂きますならば、宗教とは、神が示すことを教えるのが、宗教です、如何に神様が示して下さって、あの例えば、み教えであっても、それを行じず、または頂かずでは、値打ちはないでしょう。 親先生の云われる事を本当に行じたら、先生が云われる通りの、いや、それ以上のおかげは受けられると、皆さんがおかげを受けて初めて、私が皆さんに伝えておるところの、教えが生きて来るのです、先生あげん云いなさるばってん、そげな事は出来ん、と云うなら、私の云ってる事は嘘になるのです。
合楽に、愈々、金の扇が開かれる、シャリベン太郎が飛び込んで来るです、所謂、1万円札が飛び込んで来るです、ためには、愈々合楽理念を、もうお互いマスタ-出来ているのですから、それを、行の上に表して、そして、今まで疎かにしておった、為そうと思えば子供でも成せると云った様な事を本気で為さなければならない、本気で為そうと思うその心に、心行が必要になって来る。
心行が生まれて来るところの行が、そこに楽しう有難う出来て来るんだと、本気でそれに取り組んで行けば、シャリベン太郎が、飛び込んで来るのです、仲なか完璧と云う事は出来ませんけれども、その事を本気でやろうと思っている人の上に、必ず体験が生まれておると云う事実なんです。
ほう、もう合楽でシャリベン太郎がどんどん飛び込んで来るげなけんで、ばってん、家にはいっこう飛び込んで来ん、そんなら、あんたが、私が云う事を一向守らんけでと、云う事になるのです。
今朝方から、私は大変なお夢ですけど、大変と感じんなりに頂いたお夢なんですけど、昨日、夕べ総代会がありました、総代会がやっぱりあっとる様です、私は、この椛目の上に吉木云うところがあります、何か用件があって、吉木にまいりまして、帰って来ましてから、家で総代会があっとりますから、遅うなって済ません、用事があって吉木に行っとったからと云うて、総代会にかたらせて頂いたです。
そしたら、途端に大音響と共に凄まじい音がしました、耳納山が、北側半分が、崩れてしまった、生神金光大神様と、皆で唱えて、もうこれで吉木はしまえた、と、云うて外へ出たところが、椛目のところから、見よるごたる風で、丁度椛目の上の方が、矢作と云うところですが、矢作のこちらから、登ったところに、家が立っとります、あの辺まで、土が被っとります。
それで、私が、ああこれで吉木はしまえた、本当に、今、私が吉木から帰ったばっかりのところに、とまあ云うておる、それが、そう云う大変な事ですが、大変な事じゃないと、云う様な風にして、頂くのです、実際はその耳納山が大音響と共に半分は崩れて、所謂、山崩れです、だから、此処の山部の人家と云うものは、全部埋ってしまった、と云う様な事を意味するものだろうかと思うのです。
昨日、総代会でいろいろお話さして貰うたけど、私が、総代さん方に、本当に合楽の総代さん方にはもう本当に、どこの総代さん方も、真似の出来んごとある、朝参りには、揃うて参られた、そして、ちゃんとお初穂別に、合楽教会大発展の御神願がご成就に相成ります様にと云う願いを毎日毎日なさる、それだけに、もう教会長としてこんなに嬉しい、こんなに力強い事はないといつも云うのです。
また、実際感じておるです、ところが、貴方方はどげな風ですか、本当に、それで、私が喜びよるからと云うて、もう俺たちは立派に総代が勤まりよると思うですかと、私が云う、これは、他所の例を取っては何ですけど、なら、三井教会の総代さん達ば見てみなさいと、私が、さあ、記念祭となったら、毎日毎日、もうそれこそ上から下まで、何から何まで、万事万端の上に、総代さんが、先頭に立って、ご用に立つっとられるじゃないか、もう、そりゃ見事です、もう上から下迄です。
例えば、皆さんお参りなったですかね、司会を岸先生がしておりました、ご結界の受け付けを淵上先生がしておられましたですね、久保山さんがもう、それこそ、万事万端の上に心を配ってご用を頂いとられます、高木さんはそれこそ、ますらお派出夫の様に、エプロン掛けで、女の方の指導をしとられる、勝手の方で、……それに、池部先生、これは、池部先生じゃなからにゃ出来んご用を、なさっとられます、云うならば、ズ-からやっとられると、そりゃ、あなたあそこには、人手がなかけんでていと、云う人もありますけどね、人手が無か段じゃない、あれだけの人が出てやっているではないか。 あなた方の場合はどうか、そりゃ、私どんがごたる年寄は、皆んなが、今度、記念祭の企画の仲にも、総代さんが入っとらんぐらい、あなたどんが、する気ないから、もううちの総代達はと云うて、匙投げられとるとたいと、そう云う事だと、結局、普通で一般で云わば、つまらん総代の事を、玉串総代と云う総代たいのと、私が云う、まあ、極端な、私は初めて総代さん方に、その様に申しましたですね。
そして、次の例を話したんです、日田の綾部さんところの、娘さんが、大分の方に縁についとられます、国東の方に、それがあちらの方に引き上げて来て、日田でコ-ヒ-ショップを開いておられます。
もうそれこそ、お許しを頂いてからでしたが、それこそ、もう、置いたもの取る様にしてから、感じですけど、許可から新築です、駐車場から、土地を購入から、もう本当に置いたものを取る様な事でした。
もう、始められると同時に、もう、席の空き間がない位に、一杯のお客さんだそうです、ところが、昨日、綾部さんお参りして見えてからです、もう本当に大繁盛のおかげ頂いとりますけど、毎日1万円から、1万5千円づつ足りんそうです、伝票と合わん、たった一杯、200円か300円のコ-ヒ-を売ってから、200円として、1万円なら、50杯足らん、これだけの繁盛のおかげ頂いとるのに、お金が、5.6人の従業員の方達がおって全部でお金を扱うそうです、どこからか抜けよる、合楽の場合でも同じである。
ああ、ごひれいぞ、おかげだと云うて、これだけ沢山の人が集まって来て、いろんなご用もそれぞれなさっておるけれども、あなた方がね、総代さん方がね、もう成るほど、ご用は若い者中心にする事がよかろう、けど、私だん年寄じゃけんで、あの人達が相手にせんからと云った様な頂き方でじゃなくて、若い者では、疎漏になる、どこにお粗末が、ご無礼があるやら、出来んところをです、キチッと云うならば、締めくくって、云うなら、伝票とそのお金が、キチッと合う様な手立てを、考えなければいけんのじゃないかね、と云う訳です。
只、毎日その為にお願いしよります、お届けしよります、果たしてそのお願い、お届けが、どれだけ実感があって、だから、そうしなければならんのではなくって、そうしなければおられない信心を、総代さんは総代さんなりの、信心を身に付けて行かなければいけないと云う事ですよ。
こりや度々の様に、私はあんたどんに感謝しとる、もう合楽のごたる総代さんなおらん、毎日参って来て、毎日教会の事をお願いしとる、それだけの事、次の行の上に全然現われて来ない、そりゃ、私どんが、あんまり相手にせんから、相手にせないと云う事は、相手にされない位な事だから、あらあ、当てにならんから、当てにせんのじゃないかと、云う頂き方をせなければいけない。
私は、昨日の山崩れで、云うなら、この山部通りは、これでしまえたと、特に、吉木と云う風に云っておる、吉木と云うところは、ああ、吉木はこれでしまえたと云うておる、ところが、どう云う意味か判りませんけどです、まあ、神様の特別のおかげと云うか、私がさっきまで、吉木に行っとった、そして、帰って来て総代会に入った途端に、山崩れが始まった、と云う事を、昨日の総代会に何か大変な、私の云うた事に対してのものを感じましたです。
それこそ、蟻の一穴から、堤防が切れると云う、例えがあるくらいです、本当に信心でです、云うならば、合楽理念を基にしての、そして、心行の伴うた、実意丁寧神信心、それこそ、愛の心を以って、教会全般に、心を配らせて行く事が、総代じゃないか、総代さん方の、一段の信心を進められる事を願うと云う様な話でございました。
どんなに、素晴らしい体験をそこに見せて、こんなにも間違いが無いと云う行き方を、私が皆さんに示して、そして、私が神様から頂いた事を皆さんに示しておる、これを本当の宗教と云うのだ、だから、如何に本当の宗教か、成るほど、宗教と云うのは、人間の幸福を願うてからのものでないものは、一つもない、なら、人間の幸福の条件と云うものが、足らうおかげが受けられるだろうけれども、そう云う難しい事を云うたり、せなければならんなら、とても人間が出来る修行じゃない、信心じゃない。
と云う事になる時に、他の宗教もみなそう云う値打ちのない、云わば壷がどんなに素晴らしいと云うても、口が欠けとるしかないと云う事なんです、人間を幸福にするところの、本当の云うならば、教えにもとっておる宗教ばっかりと云う事になるのです。
形は立派である、立派なものか知れません、何千年もたった宗教も沢山ある、けれども、口が欠けておったら値打ちがない、合楽の場合は無傷である、然も、これは、人間が幸福になる事の為、やろうと思えば、誰でも出来る教えである、その教えを合楽では、一分一厘間違いのない、こう云う大変な事が起きて来る事であっても、私は、そこから帰って来ておるじゃないか。
こう云う間違いのないおかげの実証を皆に見て貰うたり、聞いて貰うたりしながら、神様のご神意を皆さんに伝えておるのであり、聞いて頂いておるのであるから、皆さんが本気でそれを行ずるならば、この世で幸福だけではない、あの世までも、この幸福を持ち続けて行く事が出来る。
例え、そう云う様に、神様が示して下さる、本当の宗教、人間幸福になって行く、しかも、そんな例え水を被ったり、断食をしたりといった行もない、只、家業の行、所謂、心行一つにしぼって、人間が本当に幸福になる事の為にはです、なら、出来る事位は、一つ本気に行じ様と云う気にならねば、如何に、シャリベン太郎が走り込んで来よってもです、それを行じないから、いや、行じないどころじゃない、それを反対の心になるから、昨日、頂いた事の中に、人を責める心は貧しい心だと、その貧しい心に豊かなおかげが頂ける筈がないじゃないかと云う事です。
人を責めたり、腹を立てたり、不平不足を云うたり、合楽理念に基づいていないと云う事、昨日、坂本さんところの、お父さんの例をとった様に、1年1か月間も、もの云わなかった人が、ものが云える様になった、その喜びも束の間、その1年1か月の間に、家族の者が良うしなかった事をもう、それこそ、もうこれ以上は云われまいと云う位に、不平不足をぶちまけられた。
そして、皆に云う事だけ云うた途端にピシャッとまた言葉が止まってしまった、その事実を何と見るか、如何に不平不足と云うものが、おかげをこわすかと云う事が判る、腹立ちがおかげをこわすかと云う事が判る、そこで、愈々心行を本気でしておかねば出来ない。 それに合楽理念の実意丁寧神信心のと云いよってもです、人を責める、腹を立てる、不平不足を云う、そんなら、シャリベン太郎が門口まで来とたっちゃ、くりっと回れ右してから、帰って行くでしょう、だから、そう云うところを本当に頂いた時にです、初めて本当の親先生が云いなさる、金の扇が合楽には開けて来るのだ。
シャリベン太郎が走り込んで来とるのだと、私の云う事を皆さんが実証して下さって初めて、私の神様から頂いた事を、皆様に伝えておる事に、皆様に信心によって、私の云うておる事を実証して下さって初めておかげが頂かれる。
皆様がもし実証しなさらなくって、おかげを頂きなさらないとするならです、如何に神様が示して下さると、親先生は云いよんなさるばってん、おかげ頂かんじゃないかと云う事になる、そうすると、どんなに素晴らしい壷であっても、もうそれは口が欠けた様なものであって、私の云う事が欠け壷になる訳です、欠け壷になったら、もうそれは壷の値打ちはないと云う事になる、値打ちあらしめるも、あらしめないも、お互いの信心だと云う事です。
合楽でなら、例をとって、本当にあのご理解を頂いてこの方と云うものは、本当にこげんおかげを頂いてよかろうかと云う程、おかげが現われておりますと、云う人たちが事実出て来とるじゃないか、そう云う人たちは確かに本気で、私の云う事を、忠実に守っとる人たちばっかりなんですけれども、殆どそこんところに、おかげを頂き得てないとするならばです、まあだ、まあだ、私共が、神様の示して下さる、神様の仰せをです、受けてそれを行の上に表していないと判らせて貰うて、所謂、欠けていない値打ちのある、壷にするのも、合楽の信心を本当に世界の名教だと、私は、今の合楽の信心こそ、名教と云える一切の値打ちを備えているんだ。
これは、合楽ですよ、合楽で云うておる信心ですよ、ね、だから、如何にその名教の値打ちを備えている名品であってもです、それを皆さんが欠けた壷にするならば、それは、他の宗教と何等変わるところはないと云う事になります。
そういう、私は自負を持って、そういう信心を身につけて、初めて、天が下には他人と云うものはなきものぞ、と、云う道理が判らせて貰うて、それこそ、この有り難い信心を、世界中に云うならば、拡げなければ出来んと云う様な、信心も出来て来ると思うのです。
今日のご理解を頂いて、しきりに、このビュ-ロ-から来ております、このカレンダ-を、頂いたから、どう云う事であろうと思うたら、世界中の子供達が手に手を取って、もう実に楽園と申しましょうか、極楽と申しましょうか、こう云う素晴らしい(カレンダ-をかざして見せながら)手に手を取った幸せそのものの絵がここに載っておった。
その事から云うてもです、如何に神様が合楽のみ教えは、神が示して皆さんに示しておるかと云う事を皆さん先ず合点しなければいけません、丁度それは、ふが良かった、丁度それがあったもん、と云うごたる様な頂き方をせずにね、もう神様がどげんかして、世界中の氏子におかげがやりたい。
世界中に他人と云う者はおらん、他人と云う事の反対は、皆、親類ばっかりだ、お前達の親類の者が、戦争をしたり、食べるに食がなくて難儀をしとる者が、世界の隅々にいっぱいあるんだよ、だから、皆さんが先ず、おかげを受けて、こう云うおかげを受けられると心の光をです。
おかげを携げて、和賀心時代を、世界に拡めて行こうと云う様な、大きな願いに立って、本気で信心が楽しうなる、しかも、厳しい事、けはしい事はない、やろうと思えば誰でもやれる、又は、やろうと思えば子供でもやれる様な事を、疎かにせずに、実意丁寧神信心、愛の心を持って、云うならば、色が白かろうが、黒かろうが、黄かろうが、皆、一視同仁の見方をさして貰う様なおかげを頂いて、神様の心に応えて行こうと云う信心を、身につけなければいけない、疵物にするも、しないも、皆さんの云うなら、信心次第出あります。 どうぞ。